興除新田開発200年記念演劇『黄金のあしあと -kojo frontier spirits-』特設ページ
1823年の興除新田開発から200年-
岡山市の南に位置する「興除地区」といえば一面に広がる田んぼと、その脇を流れる用水路。
実りの秋には黄金色の穂が揺れるこの風景は自然に存在していたわけではなく、人の手で作られたもの。
江戸時代後期、食糧不足などの問題を解決するため、岡山藩直轄事業として始まった、浅瀬を利用した干拓と新田開発事業
水の確保や土地の境界線など、さまざまな問題が立ちはだかり、水をせき止めるための堤防づくりは困難をきわめた。
これらの難問は、誰がどうやって解決したのか。
堤防はどのように築かれたのか 地域の人たちは-
「岩崎利兵衛」という実在の人物と「白いキツネ」がカギを握る、興除新田のはじまりのものがたり。
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意外と知られていない興除新田開発にまつわる出来事や「白いキツネ伝説」を演劇という形で表現。
大河ドラマにも負けない、笑いあり涙ありの人間ドラマです。
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①概 要
①概 要
【公演日程】
・2023年12月2日(土) 〈夜の部〉18時開演
・2023年12月3日(日) 〈昼の部〉13時開演 /〈夜の部〉17時開演
【会 場】
ゆるびの舎 文化ホール (岡山県都窪郡早島町前潟370-1)
【主 催】
kojo-kojo(興除向上)委員会
【制作協力】
劇団歴史新大陸
【後 援】
岡山市、岡山市教育委員会、岡山南商工会、山陽新聞社、興除新田開発200年記念事業実行委員会
【助 成】
公益財団法人福武教育文化振興財団
江戸時代後期、食糧不足などの問題を解決するため、岡山藩直轄事業として始まった、浅瀬を利用した干拓と新田開発事業。
この世界有数の規模を誇る大干拓事業は、人々の夢や希望とは裏腹に、水の確保や土地の境界線、資金調達など
さまざまな問題が立ちはだかり、水をせき止めるための堤防づくりは困難をきわめた。
作っても作っても波にさらわれ流される堤防。
もはや自然には打ち勝つことはできないのか!?
「岩崎利兵衛」という実在の人物と「白いキツネ」がカギを握る、興除新田のはじまりのものがたり。
◆製作総指揮/演出/主演 後藤 勝徳(劇団 歴史新大陸 局長) 1978年生まれのB型。岡山県出身。大阪外国語大学卒。 殺陣、居合、歴史小説、お酒を飲むことが好きで、趣味は料理。 暇さえあれば名所旧跡をめぐる、ニッポン大好き人間だが、意外なことに大学時代の専攻は「英語」。 ヒトも動物も、生き物全般をこよなく愛する44歳。 |
岡山市南区の興除学区において、2023年の興除新田開発200年に向けて「興除新田開発200年記念事業実行委員会」を立ち上げ、各種記念事業を計画。
主な記念事業として、記念式典(2023年11月)の開催、記念誌の発行、記念碑(石碑)の建立を予定しており、地元住民向けの広報紙も発行している。
1.着工まで 120 年を要した 興除新田開発 〜都合 7 回の頓挫を経て〜
江戸初期に活躍した津田永忠(1640-1707)は、早くから旭西の児島湾北岸に広い干潟や葦原のある事に着目し、その開発を考えていた。しかし、船舶航行上の不便、用水・悪水処理(水利権)といった既住地住民の思惑(主に備中側)、備前と備中間の国境未確定、更に国境に関わる漁場争論(主に八浜村・妹尾村の漁民の紛争)等の複雑な諸問題が横たわり、諦めざるを得なかった。
その構想は、次男梶坂左四郎景寛(津田八郎永元 1674-1754)が引き継ぎ、早くも享保5(1720)年に幕府から開発許可を得て着工したものの、諸事情で中止せざるを得なかった。(この時点において、新田開発は幕府主体との決定がなされ、着工まで変わらなかった。) 結果として、新田開発は梶坂の企画を含め、都合 7 回の頓挫を経て、100年後にようやく実現した。
なお「興除」の地名は、開発工事中の文政5(1822)年、岡山藩儒者小原梅坡 (1775-1831)の「管子」の「興利除害」から命名された。文政6(1823)年に完成した備前岡山藩領「興除新田」は、「一番土手」と呼ばれる道路以西の区域までであり、「古地」又は「本村」と称する。
2.明治期の開墾 〜一番開墾と二番開墾〜
明治期になると、干拓事業を「開墾」と称し、大きく分けて2期に渡り行われた。明治初期の「一番開墾」は、廃藩置県で家禄を失った士族に対する救済措置(士族授産)の意味合いが強く、当初2団体(伊木社・微力社)が開墾に名乗り出たが、諸事情で撤退した。この時期には、多くの人々が協力して開墾を行い、「二番土手」・「東畦桜通」と呼ばれる道路以西が出来た。
明治中後期の「二番開墾」では、二番土手から更に東に開墾を進めたが、この時期からは実業家や大資本家が干拓事業を手がけたのが特徴である。
3.児島郡興除村の誕生と現在の姿 〜鶴崎地区・帯高地先の分村を経て〜
昭和46 (1971) 年まで存在した「児島郡興除村」は、最初から一つの村として存在した訳ではない。 また、現在の興除地区(岡山市南区東畦・内尾・中畦・曽根・西畦)は、鶴崎地区(旧西畦)並びに帯江高沼(帯高)地先の倉敷市編入により、確定した。
「興除の先人への感謝」「次世代への魂の継承」を活動の精神の二本柱として、興除をあらゆる切り口で盛り上げていくために地元有志により立ち上がった委員会。
みんなが興除を知ることで、より好きになり、住んでよかったと思えるよう、しがらみのない自由な発想とチャレンジ精神をもって、あらゆる世代・地域などを乗り越え、興除を明るくするアイデアを実行していく。
今後100年以上、この活動が受け継がれていくことを目標としている。
〈kojo-kojoで大切にする5つのこと〉
1. みんな仲良く和を以て尊しとなすこと
2. 互いの働きに感謝を持ち合うこと
3. 悩みは一人でかかえないこと
4. 自由な発想とチャレンジ精神を制限しないこと
5. とにかく前向きに楽しむこと
・稽古及び公演には安心してご参加いただけますよう、対策を強化します。
・会場にアルコール消毒液を設置、また施設内各所の消毒をします。
・必要に応じて扉や窓の開放を行うなど、十分な換気に努めます。
・必要に応じてスタッフ・出演者はマスク等を着用し、体調管理強化に努めます。
※マスクの着用は参加者の任意で、いかなる強制もいたしません。
◆クラウドファンディングにも挑戦しました!!
7月30日に終了いたしました。応援ありがとうございました!(画像クリックでクラファンページに遷移します)